Interview

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日本映画史の中で
ほぼ無視されてきた
自主映画の歴史に光を当てたい

日本映画史の中で
ほぼ無視されてきた
自主映画の歴史に光を当てたい

研究タイトル「日本におけるアマチュアメディア文化の過去と未来」

ハーバード大学 東アジア言語文明学部 准教授

ザルテン アレクサンダー ニコラスさん(アメリカ)[第12回招聘研究者]

研究タイトル「日本におけるアマチュアメディア文化の過去と未来」

ハーバード大学 東アジア言語文明学部 准教授

ザルテン アレクサンダー ニコラスさん(アメリカ)[第12回招聘研究者]

自主映画は、「アマチュア映画」、「小型映画」、「個人映画」など様々な名前で呼ばれています。いわゆる「ホームムービー」と違って商業映画ではありませんが、ある程度の公共上映のために製作されたものです。
日本の自主製作映画の歴史は古く、昭和初期には、すでに9.5ミリフィルムによる自主映画が作られていました。その後、映像機器の発展によって、自主映画は8ミリ、16ミリ、そしてデジタルビデオと形を変えながら、年によって年間1000本以上も製作され続けてきました。しかし一方で、昔の自主映画を観たことがあるという人は、ごく少数です。なぜなら、そのほとんどが商品化されておらず、上映される機会も限られているためです。
ザルテン アレクサンダー ニコラス先生は、今となっては観ることもむずかしいという1920~1980年代の自主映画の研究をしています。今回の半年間の日本滞在研究では、残された数少ない資料を探し、当時の監督やスタッフを訪ね、彼らの所有する作品を観て、話を聞いて…と、限られた時間の中で精力的に研究活動を行いました。

 

無視されてきた日本映画史の大事な一部

 

先生が日本の古い自主映画に注目したのはなぜですか?

 

 私は、日本は世界でもっとも自主映画がさかんな国だと思います。自主映画の世界からたくさんの現在有名な監督が育っていますし、自主映画で使われた手法が商業映画の撮り方に大きな影響を与えた例も多くあります。『リング』のように、自主映画からヒントを得て製作された映画が、世界的にヒットした例もあります。でも日本では、ほぼ誰も研究していないんですね。誰も注目していないというか、無視されている。本当の映画ではないという、どこか差別的な態度があるんです。だから、図書館やアーカイブでも、自主映画の映像はほとんど扱っていません。でも、自主映画が日本のメディア文化に大きな影響を与えたことは間違いない。だからこそ、研究してみんなが見える形にしたいと思ったんです。これが自主映画の研究をはじめた理由のひとつですね。

 もうひとつの理由は、デジタル技術の拡大の前にも、アマチュア制作が行われていた事実を明らかにしたかった。今、SNSやブログで自分がスマートフォンで撮った映像や書いた文章をアップして、みんなに観てもらうことが一般的になっていますよね。こうした「アマチュア制作」がさかんになったのは、デジタル技術の発展によるものだと説明されています。でも、実は日本では1920年代から、自主映画という形でいわゆる「アマチュア制作」がさかんに行われてきたんですね。同人誌となると、もっと歴史は古い。技術の発展がメディア製作に影響を与えてきたのは事実ですが、アナログでの長い歴史を考えると、決してそれだけではない。20世紀のアマチュア制作を知ることで、現在のメディアの状況についても、いろいろなことがわかってくるのではないかと思ったのです。

 

 

受賞作より、日本で実際に観られている作品に興味があった

 

アメリカに生まれ、ドイツで育った先生にとっては、アメリカやヨーロッパの映画のほうが身近だったと思うのですが、なぜ日本の映画に興味を持ったのですか?

 

 そうですね。大学の授業でもアメリカとフランスの映画を取り上げることが多く、アジアの映画はほとんど扱いませんでした。たまに香港映画が登場するくらいで、日本の映画についてはほとんど何も知りませんでした。

 ところが1997年、北野武と河瀨直美、今村昌平が、みな同じ年でヨーロッパの大きい国際映画祭で賞を取りました。このことがきっかけで、ヨーロッパでも三池崇、黒沢清などが監督した日本の映画が上映されるようになったのです。私が日本の映画に興味をもったのも、そうした映画を観たことがきっかけでした。そこからいろいろ調べてみたところ、実は日本では毎年500本以上の映画が製作されていることや、内容もヨーロッパの映画祭で上映されるような作品ばかりではないということがわかってきました。それで、実際に日本人が観ている映画はどのようなものなのか、どういう映画が作られているのか興味を持ったんです。

 でも、当時は上映される作品は限られていましたし、もし映像が手に入っても字幕がついていないものがほとんどでした。自由に日本映画を観たかったら、日本語を勉強して観るしかなかったんですね。そこで日本語の勉強をはじめたんですが、その後、わりとすぐにフランクフルトで、「ニッポン・コネクション」という日本映画の映画祭が初めて開催されました。2000年のことです。

 

それは日本映画だけを上映する映画祭ですか?

 

 そうです。この時は13本の日本映画が上映されました。私は観客として観に行き、すぐに運営に参加させてもらえないかとオーガナイザー(主催者団体)に連絡を取り、プログラム・ディレクターを10年近くやりました。この「ニッポン・コネクション」は、すぐに海外で最大規模の日本映画の映画祭になって、最初は13本だった上映作品も、130~140本に増えました。作品を選ぶ私も、短編を含めて年間その3倍、4倍の日本映画を観ていました。

 

400~550本もの日本映画を観ていたんですね。その頃の先生の職業というのは…

 

 まだ博士論文を書いている学生でした。だからこそ、それだけの映画を観る時間があったんですね。博士論文は、60年初頭から登場するピンク映画、70年代の角川映画、それから80年代の終わりから登場するVシネマという3つのジャンルは、日本の映画史でどんな意味を持つのかというテーマで研究しました。

 この3つのジャンルの中で、いちばん多くの人が観ていたものは角川映画ですね。『ねらわれた学園』、『時をかける少女』、『セーラー服と機関銃』、『野獣死すべし』など、手法的にも斬新でおもしろいものがたくさんあります。当時の批評家に厳しく批判された作品もありますが、振り返ってみると、大林宣彦、相米慎二、崔洋一など、後に有名になる監督が角川映画から巣立っています。内容も、実験的でおもしろいことをやろうという意図が伝わって来て、とても興味深く感じました。

 

自主映画に関心を持ったのも、この頃からですか?

 

 自主映画と関わるようになったのも、やっぱり映画祭がきっかけです。映画祭でも自主映画を多く上映していて、おもしろいものがいっぱいあるとわかっていましたから。ただ、映画祭がはじまった2000年のはじめ頃、自主映画の若い監督たちは、自分の作品を海外に宣伝しないことが普通でした。ですから、こちらから日本に来て、直接連絡して「映画際に作品を出しませんか」と交渉しなければ上映できないものがほとんどでした。もちろん、上映するためには、字幕もつけなければいけない。自主映画の上映は、とても労力がいる作業でした。そのかわり、字幕があれば他の映画祭にも簡単に出せるようになるので、ある時期は「ニッポン・コネクション」が、海外のいろんな映画祭への入り口になっていたんです。今は、みんな積極的に海外へ作品を出そうとしているので、事情が変わってきましたが。

 

 

自主映画が自由に観られる
オンラインアーカイブを作りたい

 

今回の滞在研究では、どんな研究活動をしましたか?

 

 まず、図書館、アーカイブ、神保町の古本屋などで自主映画関係の雑誌や同人誌を調査しました。自主映画の資料はオフィシャルな図書館には保存されていませんし、だれも集めていないので、手に入りにくいんですね。当時の自主映画の同人誌や、上映会のチラシ、映画祭のカタログなどから、ひとつひとつキーワードを見つけて、パズルのように当時の自主映画界の全体像を探っていかなければならない。例えば70年代でしたら、『ぴあ』のイベントのページを見ると、自主映画の上映会がどこかの市民ホールで開催されたということが書いてあり、この情報を集めていくことで、なんとなく当時のネットワークがわかってきたりする。とても時間がかかる作業です。黒沢明監督の『七人の侍』を研究するなら、これほど大変ではないのですが…。

 

実際の作品はどのようにして観るのでしょうか?

 

 日本では、過去に1930年代、50年代、70 年代と、3回の大きな自主映画ブームがありましたが、今回の研究では、特に1930年代と1970年代の作品を観ることをメインにしていました。製作に関わった個人、監督を訪ねて作品を見せてもらうんですが、これも簡単な話ではないんです。細かい話になりますが、8ミリはネガがないので、コピーが作れないんですね。オリジナル1本しかいない。一度上映するだけで傷がつくこともあるので、信頼関係がないと観せてもらえないことがあります。

 

実際に監督を訪ねて観せてもらうんですね。大変ですが、実際にお話も聞けるので、収穫も大きいですね。

 

 今回の滞在研究では、本当に多くの監督にお会いして話を聞くことができました。

 ちょうど3月に開催された「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2018」の審査員をやらせていただいたんですが、この映画祭も自主映画を上映する大きな映画祭であり、多くの映画監督が集まったので、インタビューする機会が増えました。

 来週は、大阪に行って大森一樹さんにインタビューします。彼は村上春樹の『風の歌を聞け』や『ゴジラ』などを監督した方ですが、70年代の自主映画の中心的な人物でもあるんです。その時に、やっぱり自主映画をずっと撮られてきた原將人さんにもお話を聞く予定です。彼は、日本の映画史に大きな役割を果たした人です。主映画の上映団体を作って、1970年代に東京で先駆け的に自主映画の上映をスタートさせたんですね。当時、具体的にどんな作品が上映されたのかなど、実際に彼に聞かなければわからないことがとても多いんです。

 大林宣彦監督とも話しましたが、彼の前の年代の監督たちは、もう亡くなってしまった方も多い。それだけに、今、インタビューしないと当時のいろいろな情報が失われてしまうという危機感もあります。

 

今回の研究で得た成果をどのように活かしていく予定ですか?

 

 これからは集めた資料を消化して、いずれ1920~80年代までの自主製作映画の歴史をまとめた本を完成させたいと思っています。今回の研究では、1950年代の研究ができなかったので、これは今後の課題ですね。

 また今後のプロジェクトとして、自主映画のオンラインアーカイブを作ろうと計画しています。というのも、古い自主映画のフィルムは、観たいと思ってもほぼ観られませんし、監督が保管しているものも、倉庫の中だったり、ロッカーの箱の中だったりと、あまりいい状態ではない。ちゃんと保存しないと、近い将来、完全に上映できなくなることも考えられます。そこで、自主映画に関係する各団体と協力して、古いフィルムをデジタル化して、ネットでアクセスできるプロジェクトを準備しているんです。

 来年の春か、秋には、最初の段階として、20本ほどデジタル化した作品を上映しようと思っています。いずれは、今回の滞在研究で行なった監督たちとのインタビュー映像も、アーカイブのウェブサイトに載せたいですね。自主映画をもっと広く、いろいろな人が観られるようにすることで、私のように、日本の自主映画を研究したいと思う人たちが自由に研究できる環境を作りたいと思っています。

(2018年7月取材)

ZAHLTEN ALEXANDER NIKOLAS(ザルテン アレクサンダー ニコラス)

ハーバード大学 東アジア言語文明学部 准教授
研究タイトル:「日本におけるアマチュアメディア文化の過去と未来」
招聘期間:2018年3月1日~2018年8月31日(短期/後期)
受入機関:早稲田大学
アメリカ・ウィスコンシン州マディソンに生まれ、8歳でドイツに引っ越す。ドイツのヨハネス・グーテンベルク大学 映画・メディア学科で博士号を取得。同大学で非常勤講師として勤務後、日本学術振興会の研究員として明治学院大学文学部に滞在。専門は、大衆映画を中心にした日本映画研究。2002年~2010年、ドイツのフランクフルトで開催される日本映画祭「ニッポン・コネクション」のプログラム・ディレクターを務める。

Interview

研究者インタビュー

「博報日本研究フェローシップ」により日本で研究生活を送った研究者の皆さんに、研究内容についてインタビューしました。